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終わりなき戦い〜結核の集団感染〜

東京の青梅市にある精神科病院で、結核の集団感染が報告されました(経産ニュース)。現時点では78人が感染し、10人が発症、3人の方の死亡が確認されています。発症された方は本当にお気の毒だと思いますし、これ以上の犠牲者が出ないことを祈るばかりです。ただ、普段臨床の現場で感染症を診させていただいている立場からすると、正直「こんなに有病率の高い国で、よくこのレベルで食い止めているな」と思います(この発言で不快な思いをされる方がいらっしゃったら申し訳ありません)。とにかく、結核診療は難しいんです。だからこそ、我々医療従事者は、結核に関しての最低限の知識は持っておく義務があります。と言うわけで、『敵を知るにはまず歴史から』ということで、今回は結核の歴史について触れてみたいと思います。

 

結核菌は紀元前13000年頃に出現したと推定されています。 現時点で確認されている最古の結核症例は、ドイツのハイデルベルグで発掘された紀元前7000年頃の人の遺骨から分離されたものです(あのツタンカーメンも結核で死亡したと言われています)。日本では、鳥取県青谷上寺地遺跡で発見された2世紀後半の渡来系弥生人の脊椎カリエスが最古の症例で、結核菌が海外から持ち込まれた根拠となっています。17世紀後半にはヨーロッパで結核が大流行し、ロンドンでは5人に1人の死因が結核だったと記録されています。ただ、実際に結核菌の存在が確認されたのは19世紀の後半のことで、それまで、結核の原因は宗教的・迷信的なものと考えられていました。実際、西洋では腫れた目や薄い皮膚、喀血などが他の人に移ることから結核患者や『吸血鬼』と言われて迫害を受けていたということです。また、日本では福澤諭吉が1882年に発表した『遺伝之能力』の中で結核を「遺伝病」と記しています。とにかく、長きに渡り“得体のしれない存在”だったのです。

 

 

さて、すこし脱線(^0_0^) 結核というと、病気の中でも少し特別な感じがしませんか?「恐い病気」というのはもちろん、「薄幸の○○」といった、何故か『悲劇のヒーロー(ヒロイン)』のようなイメージです。それは、結核の様々な逸話からきていると思います。代表的なものを紹介します。

 

    • 新撰組の悲劇の天才剣士である沖田総司。彼の死因は肺結核ですが、沖田が池田屋事件で大量に喀血しながら大立ち回りを続ける場面は新選組もののハイライトのひとつになっています(但し、この事実は子母澤寛の『新撰組始末記』での創作とも言われています。
    • 江戸時代の話。ある良家の娘が恋の病にふせたまま16歳で亡くなりました。その娘の紫縮緬の振袖を古着屋で購入した娘も、翌年の同じ日に16歳で死亡。さらに3人目の娘も翌年の同じ日に同じ年で死亡しました。不思議な因縁に驚いた三家の者が問題の振袖を本妙寺で焼き捨てたところ、振袖は風にあおられて舞い上がり、江戸中を燃やし尽くし、これが明暦3年(1657年)に死者10万人を出した『明暦の大火』の原因に・・・。

 

何かと逸話の多い病気なんです。

 

 

話を戻します。そんな“得体のしれない存在”の正体が初めて同定されたのは、前述した通り19世紀末にドイツ人の細菌学者ハインリヒ・ヘルマン・ローベルト・コッホ・・・ではないんです。実は、コッホの報告の約20年前、1865年にフランス人の軍医、ジャン・ アントワーヌ・ヴィルマンが、結核患者の痰を用いた動物実験を行った末に結核菌を同定し、「結核は結核菌によって伝染する」という理論を発表しているのですが、何故か全く認められませんでした。やはり、近代結核史の元年はコッホが結核菌の染色に成功し、その存在が肉眼的に確認した1882年です。この発見により、結核の研究は飛躍的に進歩しました。1931年にはフランスのカルメットとゲランが『BCGワクチン』を開発、1944 年にはアメリカのワックスマンらが初の結核治療薬『ストレプトマイシン』を発表しました。さらに1946年にはスエーデンのレーマンが『パラアミノサリチル酸』(現在ではほとんど使用していません)、1952 年には抗うつ薬として使用されていた『イソニアジド』の結核への効果が報告されています。また、1960 年には、クロフトンがこれら三種の混合治療薬を提唱し、現在の『多剤併用療法』の元が完成した訳です(ちなみに、現在『多剤併用療法』に使用されているのはイソニアジド、リファンピシン、エタンブトール、ピラジナミド・・・なのはご存知ですよね(^ム^))。

 

 

日本では明治37年(1904年)に『肺結核予防規則』という法令が制定されています。「学校や病院、劇場など人が多く集まる場所には痰壷を置いて、痰を出すときはその壷に吐きましょう」という大雑把な法令ですが、結核の感染経路がほとんど知られていなかった時代としては、それなりに理にかなったものでした。ただ、そんな法令だけで結核が治まる訳もなく、明治の末の結核年間死亡者数は7万人程度にまで増加しています。もっとも、この時代の治療法と言えば、『採血を繰り返して血を抜く』『鯉の生き血を飲む』『イモリの黒焼きやコウモリの肝を煎じて飲む』といった怪しげな民間療法がメインだったので仕方がないとは思いますが・・・。実際、ストレプトマイシンなどが使用され始めた第二次大戦後、結核患者数は順調に減少していきました。昭和26年(1951年)に制定された『結核予防法』も、その一助になったと思います。ただ、この減少も30年程前に頭打ちになってしまいました。平成11年には厚生省(現厚生労働省)より『結核緊急事態宣言』が発表されたことにより多少の減少をみましたが、少なくとも先進国の中では残念ながらかなり高い有病率を推移しています。今でも1日に80人の新規患者が発生し、6人が命を落とされていますし、HIVの増加により、今後益々臨床現場で問題になっていくと思います。

 

 

やたらにボリュームのあるイントロダクションになってしまいました(^^ゞ 今後は『プライマリケアの現場での結核へのアプローチ』なんかも書いてみたいと思います。

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