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『死』を考える義務

高齢者を多く診させていただいている当科では、『死』の現場に多く接します。当たり前ですが、「どうすれば穏やかに最期を迎えていただけるか」ということは、我々にとって大命題です。それはもちろん『医学的な死』、つまりどのように疾患をコントロールし、どのように痛みをコントロールし、いかに呼吸苦をとり・・・といった内容も大切です。ただ、そういった“ハードな部分”と同様、あるいはそれ以上に大切な“ソフトな部分”を感じることもしばしばあります。つまり、それぞれの患者様、あるいはご家族の持たれている『死生観』です。非常に重いテーマですし、軽々しく扱う内容ではないと思いますが、だからこそ敢えて触れてみたいと思います。

 

そもそも、人間はいつから『死』を意識するようになったのでしょう。もちろん正確なことは分かりませんが、確認されている限り最古の埋葬は、イラク北部のシャニダール洞窟で見つかった5〜6万年前のものです。遺骨が埋まっていた土に、大量の、しかも多種の花粉が混在していたんだそうです。死んだ仲間を何らかの感情を持って見送ったことは間違いありませんし、少なくとも、この時代の人間は、『死』を“悲しみの対象”としてみていたのではないかと想像します。それは、古代のギリシャ神話やメソポタミア神話、あるいはイザナミ、イザナキといった日本神話などにも引き継がれます。この時代の『死』は単なる“消滅”ではなく、別の世界(『冥界』)への“移動”と考えられるようになりました。そして、その移動先である『冥界』は、必ずといっていいほど暗く陰鬱な場所で、そこには、海底の深いところに鯨の骨で作った家に住んでいる醜い老婆であるセドナや、骸骨の姿を持つミクトランテクートリといったネガティブな支配者が存在しています。古代人にとって『死』は『悲哀』とイコールだった訳です

 

 

その概念を大きく変化させたのがキリスト教の誕生です。キリスト教は、もともとユダヤ教の分派であることはご存知の通りです。ユダヤ教ではヤハウェという神を絶対的な存在とし、ヤハウェを崇めることにより庇護が得られると考えられていました。ここに『天国』と呼ばれる楽園世界を創造し、地位や身分に関係なく、信仰心(イエスの奇跡を信じること)があれば死後に誰でも『天国』に行けるとしたのがキリスト教です(現実世界で過酷な生活を強いられていた、当時の下層社会の人々に急速に受け入れられたのはこのためです)。ただ、キリスト教ではしっかりと『地獄』も用意されており、単純に『死』イコール『歓喜』とはなりませんでした。さらには、『天国』と『地獄』の間に『煉獄(れんごく)』という世界まで登場して・・・ここから『死生観』の複雑化が始まります(ちなみに、ユダヤ教・キリスト教を受けつつ、それを批判的に発展させる形で誕生したイスラム教も、『死』の概念はキリスト教と大きく変わりませんので割愛します)。

 

 

次に仏教です。仏教における『死』は、前述のユダヤ教・キリスト教・イスラム教と大きく異なり、『輪廻転生』『成仏』の2つの概念から成り立っています。『輪廻転生』は、仏教の元となっているインドの古代宗教、バラモン教や現在のヒンドゥー教にも通じる概念で、「あらゆる魂は、死んでもまた違う魂となって生まれ変わる」というものです。「生まれ変わっても一緒になろうね」なんて、素敵な場面で使われることが多いと思いますが、『生』を「病や老いを経験する苦行」と考える仏教では、むしろ悪い意味で使われることが多いです。さらには、前世で行った業(善行や悪行)は、すべて次の『生』に影響を与えるという『因果応報』という概念もあります。つまり、「悪いことをしたら生まれ変わってからさらに苦しむ」という可能性もある訳です。これだけでは救いがありませんので、そこに『成仏』という概念が登場します。修行を積み、善行を行うことによって『悟り』を開き、『輪廻転生』から脱し(『解脱』)、安らぎの境地である『涅槃(ねはん)』(ニルヴァーナ)に行けるのです。

 

『解脱』するためには出家して修行する必要があり、そのためには社会から離れ、家族を犠牲にしなければなりません。ただ、そんなことを行える人はごく限られています。そこで仏教(厳密には大乗仏教)は、さらに新しい『死』の世界、阿弥陀如来が作った『極楽浄土』を作り出しました。鎌倉時代の僧侶、法然が「『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで、『極楽浄土』に行くことが出来る」と『解脱』よりもお手軽な『往生』という概念を説いたことから、仏教は日本で広く普及しました。じゃあ、誰でも『往生』できちゃうかと言えばそんな簡単なものではありません。仏教では『地獄道』というシチュエーションもしっかり用意されています。ただ、これはキリスト教などの『地獄』とは違い、迷いのある魂が輪廻する6つの道の一つであり、死後の世界ではありません。その場所で罪を償い次の『生』に向かう場所です。ここも紛らわしいポイントの一つです。

 

 

『死』に関して、本来ならこういった宗教観を押さえておけば大丈夫なのですが、ここ日本ではそうはいきません。日本には、日本独特の『神道』『武士道』があるからです。お盆の時期に迎え火を焚いて、御先祖様の『魂』を迎える風習は、『輪廻転生』が原則の仏教にはない、日本人独特の『神道』です。このルーツは縄文時代までさかのぼります。豊かな自然から生活の糧を得ていた彼らの中に、自然発生的に自然を神と崇める風習が芽生えました。弥生時代には、そこに「農耕技術は先祖からの贈り物」という『祖霊崇拝』も加わり、『死者』=『霊』=『神』という図式が完成する訳です。この考え方を根底にしているからでしょうか。日本では『死』自体を必ずしもネガティブなものではなく受け入れられる風潮が出てきました。『武士道』は、そういった風潮から生まれてきたのではないでしょうか。「武士道と云ふは、死ぬことと見つけたり」という一文のもと、『切腹』や『特攻隊』が美徳として語られました。「正義のために生命をかけて!」なんて、特撮ヒーローなんかでも自然に出てきそうなフレーズの根底には、こういった日本人独特の考え方があるからなんです。

 

 

以上、何万年にも渡る『死』の歴史を、いっきにまとめてみました(近代ではさらに『死生学』という学問も出てきていますが、これについてはまた別の機会で)。もちろん、それぞれの宗教が良い、悪いとか、死を正当化している武士道がダメとかと言っている訳ではありません。みなさんに知っておいて欲しいことは「多くの日本人の『死』の概念は、紆余曲折を経てごちゃごちゃになっている」ということです。『神』と『仏』、『天国』と『極楽浄土』、『成仏』と『往生』、『地獄』と『地獄道』などが混同して使われている、世界に類をみない“チャンポン感”です。さらには、昨今のいじめ問題などで「死ぬなんて選択肢はダメ!」と声高に言われているにも関わらず、根底には「死の美学」みたいなものが存在しているのです。日本で『死』を扱うのは難しい・・・。だからこそ、『死』を扱わせていただく我々医療人は、真剣に考えなければいけないのだと思います。

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